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機関誌『地球に未来を』第13号の原稿を募集しています。 

 地球に未来を』第13号の原稿を募集しています。その案内を会の紹介かたがたしておきます。 我々は年2回、機関誌を会の外に開かれた環境問題の雑誌として発行しています。毎回、大学の諸先生、NGO団体の実践家、冒険家的研究者、真面目な大学院生などが心良く寄稿して下さっています。

 (一)、『地球に未来を』発行の基本的考え方
 我々は平成15年11月30日の『地球に未来を』第8号から原則年2回機関雑誌を出し続けています。8号としたのは、それまでに年一回のペースで『沙漠緑化の旅』が出されており、その後継誌という位置付けであるためです。
  機関誌であるということに違いはありませんが、内容は全く違ったものとなりました。現在の基本的考え方を記して措きます。
 ①取り扱う主題はいわゆる環境問題全般です。ただし「環境問題」がその範囲について、社会的に共通了解が出来ていないことを直視し、厳密には主題についても限定しません。当然、友の会の側の恣意です。
 当分の間は基本理念にある通り「「人間活動による地表生態系の不可逆的破壊」にその本態があり、それに関連する事柄をも含めて「環境問題」」として扱っていきます。
 ②友の会内部で閲読が完結するものではなく、会外部の人にも閲読してもらい、意義あるものと評価してもらえることを意識しながら作っていきます。その為には水準と普遍に通じる独自の問題意識を追及しつつ編集していきます。
 ③ならば、当然、書き手を会員に限定することなく、常に志ある方の寄稿、投稿を外部に求め、会員の啓蒙、会外部の理解、共感を得るよう努めます。従って、会の外部に開放された機関誌であって、雑誌であるという性格を育てていきます。
 ④同時に、蓄積していけば、必ず資料として役に立つという独自の要素を持たなければ、無理をして小さな会が印刷物を発行する意味はありません。無理に無理を重ねるのなら「環境問題」を設計するくらいの気迫で、環境問題の情報を整理しつつ蓄積していこう、ということで「環境問題月報」に多くの頁を割いています。


 (二)、『地球に未来を』各号の実際
 実際の『地球に未来を』はA五版、カラー表紙、136頁(第8号)から220頁(第12号)ぐらいの見てくれは小雑誌です。内容の柱は①巻頭言、②外部寄稿者の論文、③特集記事、④小島曠太郎氏の「潮風だより」、⑤“地球に未来を”講座報告、⑥環境問題月報等です。
 以下、各号の目次と表紙を紹介しておきます。
 
8号 8号表紙
8号目次
9号9号表紙
9号目次

10号10号表紙
10号目次
11号11号表紙
11号目次
12号12号表紙
12号目次


 (三)、『地球に未来を』の傾向
 “地球に未来を”武相友の会はきわめて「ゆるふん」のグループです。環境問題と社会問題は不可分だという問題意識が若干の個性らしきものですが、それとても会員みんなのものでは必ずしもないでしょう。
 あえて言えば、代表の個性が暴走路線であるから、傾向的には、今のところ代表の見解が友の会を結果的にも代表していることに間違いはない、ということです。
 サンプルとして代表の一文を表示しておきます。


【巻 頭 言】
共 生 論 の 杜 撰 を 嫌 う
 
代 表  西 兼 司


一、
 環境問題の重要さ深刻さについては言う迄もない。対応策が急がれる緊急性についても、巷間、言われている通りで私も同調する。
 しかし、他方、度々繰り返し語ってきているように「環境問題とは何か」という共通了解については社会的、普遍的に成立していない。「環境問題」は社会的概念としては成立していない、と言わざるを得ない状況である。
 「沙漠化の進行」、「温暖化の進行」、「気象の変化」、「新しい疫病の流行」、「生物種相の急激な減衰」、「人口爆発の進行」、「内分泌かく乱化学物質問題」、等の地球大的問題と「廃棄物・リサイクルへの取り組み」、「騒音・振動・低周波問題」、「自然エネルギー活用問題」、「ヒートアイランド現象の進行」等の等身大的問題は何等かの共通項を持った問題であることは了解されても、それが何であるかは確認されていない。今はただ個別の問題として羅列していくより他ないのである。
 しかし、にもかかわらず、環境問題の解決へ向けた発想、想念、構想として「共生」が喧伝され、称揚されている。問題が定立されず、問題の問題性が解明される前に、問題解決の出発点は判っているという訳だ。
 まことに笑止なことである。
 もとより、私とても「共生」という発想の魅力について理解出来ないわけではない。「共喰い」という発想から遠そうなところが良い。「死のう団」という発想から遠そうなところも良い。「一殺多生」という発想とも違うようだ。「共に生かし合う」などと言っても「食物連鎖」を否定しているわけでも、「対立的依存関係」を否定しているわけでもないので、上っ面だけの言葉だろう。
 上っ面だけの言葉と思えば、口当たり、耳障りが良い。殺し合いでなく、集団自殺でなく、生け贄を求めず、弱肉強食といじめを認めてくれるのなら、「山川草木悉有仏性」を認める凡愚俗徒の大乗観と一致する。個別環境問題を媒介にして「大衆部」の人々の心をひとたび把握するには良い言葉なのだろうと思う。
 私も「共生」という言葉は大切にしなければならないと思う。これから、豊かにその意味を加えていかなければならない、ということに異論はない。
二、
 そのためにも、今の「共生論」として語られているイメージについて、それは駄目なのだ、ということをはっきりと一度、言っておきたい。さしあたり、三つの視点から疑念を表明しておく。
 第一点は「共生」は現実の環境破壊に対する批判の出発点であるとき、前提的過去(実在)であるのか、追い求められるべき結果的未来(理想)であるのか判然としないという疑念である。
 前提的過去であるならば、返るべき過去の議論が真剣になされなければならない。(一)、第二次大戦後の管理通貨=変動相場制こそ人類の浅智恵で、戦争を恐れて人口爆発という大惨害をもたらしたのか、(二)、いや、十八世紀、十九世紀の産業革命こそ大規模鉱工業という取り返しのつかない自然破壊を不可避としたのか、(三)、いやいや、一神教の伝統の上でのイスラム帝国の成立、十三世紀モンゴル帝国によるユーラシアの統合、十五世紀大航海時代の到来が世界商業の成立、商品経済の自立をもたらし、生産・消費空間から切断された富(利潤)への欲動を成立せしめ、そのことによって地域自律の条件が崩されたのがいけないのか、などということの検討である。立ち返るべき過去の考究である。これは、当然のこととして、農業革命の是非や火や道具や言語の使用などという「人間性の出発点」の是非論の検討にまで至らざるをえないであろう。  結果的未来像であるのだとするならば、これも真剣に現実を出発点としてどのような未来の可能性がありうるのかが検討されねばならない。どのような人間観が求められ、社会像が描かれ、自然との関係が設計されるべきなのか、ということの考究である。しかし、同時に未来像は必ず、直接的な未来の主導権の基盤として、対立の火種として育まれる他はないのだ、ということも了解されねばならないことである。
 現実批判の出発点としての「共生」だとするならば、過去に「共生」が在ったというならば、どの過去に戻るのか、未来の課題だというならば、どのように作るのかという議論に託しつつ、 誰が作るのか、ということを直視しなくては駄目なのだ、ということである。
 第二点は「共生」と言って、いったい本当は何を言っているのか、何と何の共生なのか、言葉の対象が判然としないという疑念である。例えば、「私とあなたが共に生きる」という話と「ウイルス、バクテリアと核のボタンを握っているアメリカの大統領が一つの生態系の中で共に存在している」という話の間には万里の距離がある。前者は主観であるし、後者は客観という以外、いかなる意味も持たない話である。文学と身も蓋もない事実の違いである。
 しかし、今の「共生論」のレベルは両者を「共生」させてしまう。対象がはっきりしないことによって、「共生」というキーワードが議論中断、思考停止のホイッスルになっているのである。
 こんな「共生論」のレベルでは全く駄目なのだ、ということは言を要しないであろう。
 第三点は「共生」の主辞が判然としない、という疑念である。第二点の疑念とも重なるが、この場合は共生の主体は「種」なのか、何らかの「集団」なのか、「個体」なのか、ということである。
 人によっては、これを簡単な問題と見る人もいるであろうが、一筋縄ではいかない。共生主体を「種」とするのは最も考え易いが、「種」と「種」が自立しあって対峙しているわけではない。「寄生」もあれば、「食物連鎖」もある。ある種の「生命系」として「種」もあるのであって、時間的空間的な変異変動の中にしか、「種」も存在しえない。これを「共生」に還元するのは易いことではあるが、すると「種内部」の闘争が排除される。人間という種を見る事が出来    なくなる。
 そこで、何らかの「集団」を見ようとすれば、「社会」と「族」というものが最も代表的なものとして想定されうるが、これも、単に形式的なものとして二重に存在しているわけではない。
 「社会」といっても、市民社会もあれば、日本社会もあるし、企業社会もある。「族」といっても、民族・部族もあれば、家族・尊族(卑族)もあるし、社用族・暴走族もある。しかも、この集団はほとんど文化、習慣、意思を基盤に形成されているのであって、客観的客体的対象化が困難な主体なのである。
 逆に、私には「個体」を共生主体と考えることは出来ないと直ちに言いたいところではあるが、「個体」は伝統や正義の器と考えれば、他者を否定しつつ共生主体としての用を果たすのかも知れぬ、とも思う。
 何でも共生主体とされていて、だから、良く分からない。だから、「共生だ」と言われかねない不気味な恐ろしさがある。そして、皆、そのことに注意を払っているようには見えない。
 主辞が判然としないことで、あらかじめ「共生論」は暴論になるより他ない領域として設定されているのだとしたら、駄目だ、と言わざるを得ないであろう。
 現状の「共生論」にはこうした疑念がたいていの人の議論にまとわりついている。ほとんど真面目な議論の対象にすることが出来ない。皆、人の議論を叩かなすぎるからだろう。だから、「共生論」は杜撰すぎて腐っている、と言いたいのだ。
三、
 多分、こんな「共生論」の花盛りなのは日本の特殊現象なのだと思う。
 ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んでも、ブライアン・フェイガンの『古代文明と気候大変動』を読んでも「共生」を著者が想定しているとは考えられない。いや、日本人だって、例えば松井孝典氏の文章などを読んでいる分には「共生論」でイライラさせられることはない。
 単純に、行政の予算付け事業の現場と社会運動としての環境問題の現場でのみ「共生論」が語られすぎているのだと思う。
 しかし、現在の「共生論」は様々の環境問題をミスリードしていくことに必ずつながると承知すべきである。六十五億人を超えた人口の中で沙漠化・土壌流出が起こり、ツンドラの永久凍土が融け始め、北極と南極の氷床が縮少、海水面が上がり始めた地上の上には既に数億の居住空間を持たぬ人々がいるのだ。先行きの想像力が沸かぬ者は愚者である。
 堕落した思考は悲劇を加速すると胆に銘じるべきだ。目をそむけたい事を見たら、見ていない人に対して徹底的に語るべきなのだ。愚論は率直にそう指摘すべきなのだ。愚論に上品なお付き合いをしていて、愚者が悔い改めるはずがないではないか。我々に綺麗事を言っている時間は、もうあまり残されていないはずなのである。
以  上


(四)、『地球に未来を』第13号構想
 第13号は出来れば特集を二本建てたいと考えています。
 一本は「低周波音問題研究会設立へ向けて」です。8.27交流会で研究会準備会発足宣言をしてから、現在は準備段階ですが、下働きグループとしての武相友の会は色々と動いています。8.27交流会については『報告書』が11.26に出されますが、同時に8.27以外の低周波音問題への考察を何とか集めたいと考えています。動きの報告と様々な考察で特集を組みたいところです。
 もう一本は「経済成長の意味」です。①成長からの疎外、②「成長」とは何か、③「経済成長」と「自然収奪」の関係、④「腐朽」と「ウィン-ウィン」の関係、⑤環境と経済、⑥循環的生存の限界、などなど考えなければならない問題は山積です。何人かの識者に当たってみるつもりです。
 これらに知力のある方の投稿が寄せられるのなら歓迎です。全て採用することは出来ないでしょうが、編集者の恣意的判断が許容出来る方は是非原稿をお寄せ下さい。


(五)、募集要綱
1.原稿締切り 10月末日(手書きはその5日前) 発行目標 11月15日
2.原稿量は400字詰め原稿用紙で20枚から60枚。編集による改編はあるものと了知されたい。事前の了解の手はつくす。
3.原稿料は支払えない。執筆者には完成冊子を10部、謝礼として贈呈。
4.入稿方法は
 手書き原稿は郵送の事。
郵送先は、府中市宮西町2-12-1ときわやビル2F“地球に未来を”武相友の会
TEL:042-358-5541 FAX:042-358-5542 

E-mailの場合は、tikyuunimiraio@mc.point.ne.jp
(原稿部分のみ添付ファイルとしてあればありがたい)
5.著作権は執筆者にあるものの、版権及び再利用権については友の会に許容する旨、あらかじめ許諾の上送達願いたい。友の会もまた、非常識な取り扱いはしない。
6.不明な点は電話、Eメールであらかじめ問い合わせ願いたい。

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